平成16年
校長のよもやま日誌
7月



校長の甲斐切です。 どうぞよろしく。

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7月26日(月)
本日夕方より日本へ帰る。いつものお盆に合わせての帰省。今回は家族旅行を予定しているので、 ちょっと長めの日本滞在になる。戻ってくる8月22日までこの日誌もお休み。また4週間後に!

7月23日(金)
新しい車が来た。といっても中古である。ただ、半年しか使っていないので、ほぼ新車に近い。 車種は、インドネシア人の憧れの大衆ワゴン車(なんか変な表現)、TOYOTA・.Kijang。中古でもこんなに うれしいのは、たぶん前のくたびれた車でかなり辛抱したせいであろう。前の車は、ドアは鍵が壊れ、エアコンの効きは悪く、 窓の開閉は手動で、実はみんなひそかにオンボロだと思っていたらしい。それが、オートロックの冷房ギンギン、 窓は自動開閉の2003年製の人気車になった。前の車でまだまだイケルと思っていたが、たしかにこの装備は 快適だ。乗るたびに、あ、缶ジュース入れるところがある! あ、鏡がついてる! あ、シートベルトがちゃんと 伸縮する! と一つ一つに喜んでいる自分がいじらしい。

7月19日(月)
2004年第2回技能検定試験無事終了。今日から2005年第1回の技能検定試験の準備に入る。前回の ポスターの撤去と次回のポスターのお願いに、またジャカルタを一巡りしなければならない。なのに、こんな大切な ときになって、なんと学校車が事故を起こしてしまった。駐車場から出るときに電柱にドシン! おしりから、みごとに ぶつかり、後ろのガラスはすみからすみまでこなごな、ボディもへこんだ。「ありゃりゃ〜」と思った私以上に 真っ青になったのは運転手さん。実は、学校車を買い換えることになっており、今日か明日にでも、新車と交換の 予定だったのだ。すでに売値がついている車にけちがついたわけだから、運転手さんとしては自己責任の大きさに ぼう然となるのも当然だ。でも、私はあまりショックではなかった。いや、それより3つのポイントから、ラッキーだと思った。
まずその1.もし、今日新車が来ていて、ぶつけたのが新車だったらそりゃ比べ物にならないくらいショック。 その2.人をはねたのではない。また、私にも運転手さんにも怪我がなかった。そしてその3.この交通マナーのない に等しいジャカルタで、うちの運転手さんは勤続7年で初めての事故。しかもこの程度。どう考えてもラッキーである。 久しぶりに聞くインドネシア人が本気で言っている「Minta maaf(すみません)」を、「いやー、やっぱり謝罪の言葉は 気持ちいいね〜」と思いつつ、7年働いてくれた学校車が、ちょっとすねているんだなと思うことにした。

7月18日(日)
いつもこの日誌は夕方から夜にかけて書くのだが、ただ今、日曜日の午前6時34分。なんで日曜日の こんな早朝に書いているのかというと、今日はインドネシア語技能検定試験の当日。スタッフ集合は8時だが、なんとも 落ち着かない私は、最終チェックのために一人6時に来たのである。この心配性は、ここインドネシアで働く限り 続くと思われる。そういえばジャカルタの日本人社会を揺るがせた曽我さん御一家が、本日午前に日本に向けて 発たれるという。曽我さん御一家にとってジャカルタがよき想い出の場所となりますように。

7月15日(木)
日本語能力試験2級対策講座に新しい学生が入ってきた。ただ、1時間30分、悪戦苦闘。なぜなら、今回の クラスは2級をすでに2回3回受験している学生や、大昔に2級に受かったけどもう一度万全の体制で受けたい という学生たちが受講しているので、去年3級に合格したばかりの学生には少々きつい内容なのである。 とにかく、途中からの参加なので、まずはクラスの雰囲気に慣れてもらうことである。置かれた場所に慣れる・馴染む ということは何においても大切なことだが、これがけっこう難しい。

7月13日(火)
昨日、不思議なことがあった。日本人会の会報誌「ブリタジャカルタ」に連載させていただいている「日本語教師 七転八倒物語」の受け取りの確認のお電話を、編集部のかたにした。つーつー、かちゃ、「ハイ」。「あ、○○さんで いらっしゃいますか」。「…ハイ」。「あ、ジャカルタコミュニケーションクラブの甲斐切ですが」。「…ハイ」。「今日、原稿を 受け取りにいらっしゃると言うことですが、何時でしたでしょうか。9時か9時半だったと思うんですが」。「私は 9時30分って聞いてますけど」。「あ、そうでしたか。じゃ、お待ちしています」。がちゃん。全体に不機嫌な感じがして、 ○○さん、ご機嫌ななめだったなー。まだ寝ていらしたのかな〜、まだ7時半だしな〜と反省したその1時間後。 「甲斐切先生、○○ですけど、原稿の受け取り、何時にうかがいましょうか?」と電話。は? じゃあ、さっきのは?? 電話番号を確認したら、最後の三桁を若干間違ったよう。でも、通じてしまった。これは怖い。さっそく次回の原稿の ネタにしようと心に決めたが、その前に日記のネタになってしまった。

7月12日(月)
家の大改造をしている。賃貸の一戸建てだが、大家さんが物分りのいいかたで、たいていのことは許してくれる。 だが、職人さんとのコミュニケーションはストレスの連続。毎朝、「ここはこうして、そこはああして」と注意深く説明して 家を出るのに、帰宅したら、思わぬかたちに出来上がっていることがしょっちゅうある。かといって、学校があるので、 ずーっとついて見ていることはできない。イライラしながら、父がいてくれたらなぁと思う。 大工仕事の好きだった父はまた、インドネシアという国が大好きでもあった。 父はJCC設立の一年前に亡くなったので、学校のことなど知りもしないが、生きていたらきっとジャカルタに住んで くれていたと思う。もしかしたら、日本人のかたのために、なんでも屋さんでもやっていたかもしれない。 夏になると亡くなった人のことをしみじみ思い出す。インドネシアは年中夏なのに、体内時計ならぬ、体内カレンダーが そうさせるのだろうか。

7月10日(土)
火曜日に電話取材を受けたJ-WAVE JAM THE WORLD のホームページで、JCCのホームページを紹介して いただいている。1、2週間ほどだが、東京の人気FM局の番組ホームページのトップページにJCCの名前が載って いるなんて、すごくうれしい。でも、あれやこれやで、なんだか今週は疾風のごとく過ぎ去った一週間だった。 しかも、今日は七夕パーティーだったのだが、その最中にも報道関係の方からお問合せのお電話が。ん〜、来週は どうなる?

7月8日(木)
今朝、学校に着いて一時間ほどしたころ、受付のスタッフが名刺を持って入ってきた。「先生、日本からのお客様」と 手渡してきたその名刺には、日本テレビ報道局という字が。「えー、まさか」という思いと、「うーむ、やはりな」という感じと、 「ついに来たか」という覚悟がいっしょくたになったような感覚を覚えつつ、ロビーへ。予想した通り、曽我さんの 来ジャカルタに関してのインタビューを日本人の方にさせていただきたいという依頼であった。ちょうど10時台だったので、 一般インドネシア語講座の9クラスのみなさんがワイワイ集まっていらっしゃるところでレポーターの方のインタビュー 開始。授業風景も撮影されてお帰りになった。番組は「ニュースプラス1」。夕方にはさっそく、「見たぞー」という 友人からの電話がかかってきた。「曽我さんの在ジャカルタが長くなったら、JCCでインドネシア語を勉強されたりして」とは、 すっかり興奮している姉の発言。その姉の話によると、今日本では毎日のように曽我さんのニュースが流れ、 そのバックはジャカルタの風景という。今年ジャカルタは広く日本人の方に認識してもらえるかもしれない。

7月6日(火)
昼ごろ突然東京から電話がかかってきた。東京のFM局のJ-WAVEからだ。なにごとかと思ってうかがうと ある番組の中で、昨日行なわれた大統領選挙と曽我さんご一家のジャカルタ再会に関してのお話をしていただけないかとの こと。ジャカルタが日本からの報道陣で騒がしくなっているここ2、3日ではあるが、まさか自分にこんなお役目が 来ようとは思ってもみなかった。かくて18時15分、日本時間の夜8時15分、 J-WAVE JAM THE WORLDのTHE CUTTING EDGEというコーナーで15分ほどお話させていただいた。私がアナウンサーの仕事をしていたのは20年も昔になるが、 なんとなく本番の緊張した空気が電話から感じられ懐かしいひとときであった。

7月2日(金)
毎年恒例の七夕の笹が今年もJCC玄関前に登場した。早くも個々の祈りの綴られた色とりどりの短冊が目に 鮮やか。そういえば拉致問題の曽我さん一家がインドネシアのバリ島で再会を果たすことになったという。いかにも 七夕にふさわしいニュースである。バリ島は七夕がとても似合うところだと思う。天が高く、けれど近く、祈りが神々に よって確実に届けられそうな気がする。政治や国際問題やそんな思惑の関与しない所で、ひとつの家族のためにバリの 神様は動いてくださることだろう。