Jakarta Communication Club
ジャカルタコミュニケーションクラブ
 Since 1997

よもやまクラブ by Ibu KAIKIRI                           
 
2003年3月正式公開より
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日本語教師七転八倒物語
104回


2007年 6月



著者:甲斐切清子
 

 

私が初めてインドネシアにやってきたのは、今から20年ほど前。友人とハレー彗星を見にバリへ来たのが、この国との縁の始まりだった。その後はバリのリピーターとなり、ついに1993年11月、ジャカルタに日本語教師としての職を見つけて住むことになった。それからすでに14年の歳月が経ってしまった。

 

最初の勤務先は、日本にある大手日本語学校のジャカルタ校。校舎は高級住宅街のメンテンにあった。だが、メンテンといっても端っこも端っこ、夜になるとオカマたちが立ち並ぶことで有名な、マンガライにほど近いラトゥハリハリという通り。スタッフは、日本人教師3名と事務のインドネシア女性1人。そして、警備・掃除・修理など雑務全般を仕切る男性スタッフ1名と料理・掃除担当のお手伝いさん1名。学校全体でもたった6人だけの所帯だった。

そこは、インドネシア人学習者に日本語を教える学校だったので、日本人のお客様はほとんどなし。宿舎は学校内にあったので、通勤の必要がなかったので車はなかった。買い物に出かけるというと、バスかタクシーでタムリンの「そごう」か「プラザインドネシア」。日本語を教えるという、最も日本に関わる仕事をしていたのに、ジャカルタの日本人社会はほとんど知らなかったのである。

 

その日本語学校がわけあってジャカルタから撤退することが決まったとき、私は現地の民間日本語学校に招いてもらった。すでに20年もの歴史があるその日本語学校は、それまでネイティブの先生を雇ったことがなかったので、それはそれは喜んで迎えてくれた。学校はモナスを越してコタ駅に向かうガジャマダ通り沿いにあった。

私はそのころ、テベット地区にある知人宅に下宿していたのだが、その知人が引越したのを機に、同じ地区に小さな家を借りた。うなぎの寝床のような2LDKの家は、猫の額ほどではあるが庭もあり、自立した自分をうれしく思ったものだった。

自宅から学校まではバスで30分ほどかかった。午前11時ごろのバスで出勤、夜8時半ごろ学校が終わって、バスで帰るという毎日だった。帰りのバスではうっかり寝てしまってよく乗り過ごした。それでなくても街灯の少ないジャカルタの町。ましてや薄暗いバスの中で眠るなんて、通貨危機や暴動以前の、穏やかな時代だったからできたことだったかもしれない。

その学校に勤め始めて、私はますます日本人社会を知る機会から遠のいた。なにせ職場には日本人は私一人。受講生も日本語学習者のみなので日本人の出入りは皆無。それに、場所が悪名高きコタときている。でも、コタが日本人社会ではタブーとなっていることさえ、その頃の私は知らなかった。

私は教務主任として、ネイティブの教師として、意欲むんむんで教務を始めたが、半年、1年と経つうちに、疑問を抱くようになっていた。学校内で教授法の勉強会やセミナーを提案しても、その学校は、外からお招きする指導教師に、たった1回だけの、2万ルピアの謝礼が出せないという。教師は教師で勉強会やセミナーは、時間をとる、面倒、しまいには「何のため?」。悶々とし始めた私に、担当していたプライベートレッスンの学生がこう言った。

「先生は、自分で学校を作らないの?」

たぶん、私の顔は「…?」であったと思う。そのぐらい、自分で学校を立ち上げることなど、考えたこともなかったのだ。

だが、その彼女と話をすればするほど、自分の理想の学校への想いは強くなり、夢は叶うものなのかもしれないと思えてきた。母と姉は「とんでもない!」と反対した。だが私の想いはもう、誰にも止められないスピードで走り出していた。

 

そして1997年3月。日本人のためのインドネシア語&インドネシア人のための日本語学校「ジャカルタコミュニケーションクラブ」が生まれた。教師4名、事務1名。コンピュータもコピー機も、車もなかった。それでも私は大満足だった。設立当初、私は興奮状態にあったのか、毎日6時には目が覚めた。身支度もそこそこに7時には学校に向かっていた。ありがたいことに開校と同時にたくさんの方に入会していただき、半年もしないうちに受講生は100名近くになっていた。

だが、その年の末、アジア通貨危機がインドネシアを襲った。ルピアの価値は5分の1にまで大暴落した。

そして翌年1998年の5月。インドネシアの政変。インドネシアに骨を埋める覚悟なのだからと、ぎりぎりまでがんばって残っていた私も、さすがに緊急に身を寄せていたインドネシア人家族に迷惑がかかるようなことになったら…と、出国することにした。ただ、日本に帰るのはインドネシアと決別するようであまりにも忍びなく、それではと、その友人家族が用意してくれたタイ航空のチケットでバンコクへと飛んだ。

バンコクで迎えた3日目、ついにスハルト大統領が退任した。それを見たかのように、逗留先のホテルに日本の母から電話があった。早く日本に帰ってこい、と言われるのかと思ったら、「大統領が替わってインドネシアはもう大丈夫だから、さっさとジャカルタへ戻りなさい」。学校を作ることにあんなに反対した母は、そのころには、私の将来を信じて応援してくれるようになっていたのだ。

その後、ジャカルタに日本人の方が完全に戻ってくるまで時間はかかった。でも、もっとも駐在員の復帰が早かったのは日系企業だったと聞く。そんな日本人の方々に助けていただきながら、そして日本に興味を抱いてくれるインドネシア人の方々に応援していただきながら、10年の月日が経った。


 2000年にJCC文化センターがオープンしたことにより、校舎は2つになった。スタッフは事務部7名、教務部8名、インストラクターは常時15名ほどで、いまや創立当初には考えもしなかった大所帯となった。コンピュータもコピー機も学校車もなくてはならないものになり、日夜バリバリ働いてくれている。ゼロから少しずつ積み上げることを実感する10年だった。

        



さて、その10年の歩みを記念してパーティーを行うことになった。JCCのパーティーというと、JCCの手作りポスターでお知らせして、JCCの校舎内でJCCの中にあるものでJCCスタッフの作った料理でおもてなしするのが通例である。
 だが今回は10周年。10年に一度しかないパーティーである。ここはやはり、バシッと決めたい。みえっぱりと言われようが、不相応と言われようが、たまには「お、JCCも立派なパーティーができるじゃん」と、思われたい。


        


 というわけで、10周年記念パーティーはホテルですることに決定。私は、はやる気持ちを抑えられなかった。なにせ、ジャカルタに住んで14年、自分がホテルでパーティーを主催するなんて、結婚式(…?)以外は考えもしなかったから。スタッフたちも大はしゃぎである。


 だが、そのはしゃぎぶりを見て、ふと我に返った私は、これから大変な忙しさになるぞと思った。しかし、そのときの私はまだ厳しい現実の半分もわかっていなかった。
 
 次回は、JCCに3ヶ月間鳴り響いた10周年記念行事狂想曲の様子をご紹介したい。          
 


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