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よもやまクラブ by Ibu KAIKIRI                           

 

日本語教師七転八倒物語
79回


2004年9月



著者:甲斐切清子

  

 この原稿を書くたびに、私は自分にちょっと呆れる。 どうして私は、なにごとにもこう大げさなのだろう。たいした話を書くわけでもないのに、「怒涛の2004年シリーズ・ 5月&6月編」なんて、えらそうに書いてしまって。これじゃ、自らスポーツ新聞の一面のような安っぽさと品のなさを 定着させているようなものである。たぶん、あれね、あれですね、きっと。みなさんに話を聞いてもらいたいんですね。 それで、より多くのかたに聞いていただきたいがために、大げさに言っちゃうんですね。さびしいんだなぁ…私って。
   そういえば、このあいだお医者様から言われた。「やせたかったら朝ごはんを食べなきゃいけませんよ。 甲斐切さん、食べてますか、朝ごはん」。食べてないなぁ、ぜ〜んぜん。「あ、それからね、もうひとつ太る大きな原因 があるんですよ。さびしい人。さびしい人は太るんです」。ありゃま。ダブルパンチ。家族がいないから朝ごはん食べ ない、家族がいないからさびしい。私って太る要素の集合体みたいな人だったのね、へぇぇぇ〜〜としみじみ納得し ながら、「怒涛の2004年シリーズ・5月&6月編」、まいります!

   学校のオリジナルテキスト作り、インドネシア語技能検定講座開講準備、総選挙…と続いた 3月4月。世界中のどの国のどの暦をめくっても4月の次は5月である。5月は、日本から友人が来たり、技能検定 試験の受付があったり、企業研修が続いたりして過ぎ去った。「怒涛」は、次にやってきた6月である。
   まず、10数年ぶりに海外旅行に行った。親しい友達は、「なに言ってんの。ジャカルタにいるあんたは、 ずーっと海外旅行しているようなもんよ」と言う。姉も、「いいね、好きなインドネシアにいられて」とうらやましがる。 だが、10年以上も住むと、もはや海外にいるという感覚はなくなる。日本に帰ったときのほうがキョロキョロの モタモタで、よっぽど外国にいるような気がする。そんな私が、久しぶりにアジアから飛び出したくなったのである。
   行き先はヨーロッパ。女5人の珍道中で、30代、40代、50代、60代、70代の、しかも、未亡人あり、 バツいちあり、生涯独身ありと、きれいさっぱり男っ気なし。この女5人衆で、各都市にて待ち合わせてジョイントした。 パックツアーではないから、自由気まま。アバンチュールを大いに期待したが、女がにぎやかに集まっていると誰も 寄りつかない。そりゃま、先に述べた年齢では期待する方が図々しいかもしれないが、行程の途中で私がひとりで 周っていたスイス・ベルン〜オーストリア・ザルツブルグでも、声をかけてくれるのは土産屋のあんちゃんだけだった。   今回の旅行で最高の収穫だったのは、チェコ・プラハの男たちのハンサムっぷり。目がとろけた。どこを見ても すらっと縦に伸ばしたデカプリオとブラピ様だらけ。レストランのウェーターも、バスの運ちゃんも、マリオネット劇場の 切符係りも、透明感のある高貴な、それこそ近づきがたい美しさなのである。いっしょにプラハを周った友人と、 「今日はデカプリオ4人、ブラピ7人」と集計をしながら、「ヨーロッパっていいねぇ、いい男はやっぱりヨーロッパ だねぇ」と、ため息の連発。なのに、その後に行ったドイツのミュンヘンは、どこを見ても田舎っぽいトラック野郎 ばっかりで、ヨーロッパはけして狭くはないことを実感した私たちであった。

   旅行から帰ったら、お手伝いのラトミが病気になっていた。原因不明の病気なので、大病院に 通わせたのだが、小さな診療所にしか行ったことのない彼女は、毎晩、「今日は検査に2時間もかかった」とか、 「次の検査まで5時間待たされた」とか、「書類を取りに行くのにながーい廊下を歩いて階段を上って、隣の棟に 行ってまた廊下を延々と歩いてエレベーターに乗って…」と、文句の山。結局、こんな不便な病院は面倒だと、 血液検査やレントゲンや、いろいろ検査したのに途中で投げ出して、インドネシアの漢方薬ジャムーと按摩やさんに 切り替えた。安心と納得が一番の薬ってことだろうか、病気は実際治りつつある。やっぱり不思議の国インドネシア だ。

   さて、15年前にヨーロッパ旅行から帰ったときもそうだったが、個性を大切にしたヨーロッパの かわいらしい家を見ると、自分の家をもっと快適にしたくなる。今回も同じ気持ちにかられ、6月下旬から家の改装を 始めた。
   職人さんは、毎度のことでお手伝いのラトミがどこからか連れてきてくれた。小柄で珍しく色白(の部類に 入る)の30歳ぐらいの親方と、その弟子風の20才くらいの若者。親方の顔つきはピリッとしていて、いい仕事が 期待できそうな予感。聞けば、壁を作り、ペンキを塗り、水道管を通し、電気の配線をし…となんでもできると言う。 そこいらの亭主たちよりよっぽど役に立つではないか。しかも日給は、昼ごはん代込みで日本円で600円弱。 かかるお金まで亭主より安上がりと来ている。だが…これがとんでもないストレスの元凶となったのだ。
   まず、仕事が遅い。一帖分の広さもないシャワールームのタイル張りが、3日かけても半分終わらない。 給湯機の取りつけも半日でできると約束しながら一週間以上もほったらかし。むろん、私は毎朝、「Bapak、ここは こうしてあそこはああして、間違わないでね。それからあれは気をつけてね」と、逐一言って出かける。わかりにくい かと思って、ゆっくり、言葉を選んで、何度も。なのに、夜、帰宅してチェックしてみると、言った通りにできている ことは、ほんっとに稀なのである。
   「Bapak、コンセント差込口は右側につけてね。あとでテレビを置くのは右側だからね」。
   できあがり、左側。
   「Bapak、この壁のタイルは床から1メートルまでね。タイル5枚ね」。
   できあがり、1メートル60センチ、タイル8枚。
   「Bapak、この天井のペンキは茶色ね、ここだけ茶色よ。ほかと違って白じゃないからね」。
   できあがり、 天井まっ白けっけ。
   …てな具合である。こうなると、自分のインドネシア語を呪うようになる。アタシのインドネシア語って、 どういう状態なの! かなりあぶないの? それともすでに腐敗が進んでいるの?? ええい、こんな役に立たない インドネシア語なんか、いらんわ! と思っても脳に刻まれた記憶は簡単には消せない。だが、本当に私のハチャ メチャなインドネシア語のせいだけだろうか。職人さんたちの仕事ぶりを見ていると、それだけではないような気も してくる。
   亡くなった私の父は大工仕事にすこぶる長けていて、勤めの合間をみて2階建ての家まで作ってしまう ほどの人だった。それだけに私も幼いころから鋸や金槌や釘やセメントを身近に見ていた。だから、ドライバーを 乱暴に使っていたり、目測で高さを決めていたり、電線をいい加減に埋め込んでいるのを見てしてしまうと、 大工としてのクオリティはいかほどであるか、判断できてしまうのである。
   結局、最終的に仕上がるまで2週間と約束した行程が、連絡なしで来なかったりもあって4週間かかった。 そこいらの亭主よりよっぽどいいと先ほど書いたが、亭主の場合、連絡もなく帰宅しなかったり、2週間で給料を 持って帰ると約束して4週間かかったら、両手を腰にあてて、「アンタ、なにやってんのよー!」と、罵詈雑言を 浴びせられる。だが、ここインドネシアの職人さんにはそれはできない。怒っちゃいけないからね、ここ インドネシアは。ましてや両手を腰にあてるのはタブーだし。そんなこんなのストレスを考えると、相手はやっぱり、 言いたい放題ができる亭主の方がいいってことになる。

 
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